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伊藤真さんの特別講演要旨
伊藤塾 伊藤真
第114回中央委員会講演録 2005年10月12日
 弁護士・裁判官・検察官の法曹や公務員などをめざす人たちに法律や憲法を教えています。法律家養成に携わって20年になります。10年前まで弁護士をしていましたが、今は弁護士登録を抹消して教えることや全国各地での講演などに専念しています。
少し前までは企業のコンプライアンスについても話していましたが、最近は憲法の話をすることが多くなりました。私の信条は「人間は戦争がない暴力のない世界を目指すべきだ」ということです。それは理想であり、暴力はなくならないと言われるかもしれませんが、やはりなくすよう努力をすべきで、それが人間の知性ではないかと思います。
さて、今日は、憲法の価値、構造から、9条の考え方、そして新聞への要望なども含めて話したいと思います。できれば自民党の新憲法草案一次案についても私見を述べます。

▽多数決が間違うこともある−立憲主義が必要
 まず憲法とは何か。法律は何のためにあるか。
法律はそれぞれの利益のぶつかり合いの調整のためにあります。私たちは法律が正しいから守ろうとします。なぜ正しいのかというと、国民の多数が支持したからです。このように、法律の正しさの根拠に国民の多数を持ち出すことを国民主権といいます。
では、多数派が常に正しいのか。本当に多数派が支持するとそれは正しいのか。最近のイラク戦争、60年前に終わった日本の戦争、ドイツのヒトラーの侵略の何れも多数派の支持のもとに行われました。しかし今から見るとどれも決して正しかったわけではありません。多数意見に基づいて政治を行うことは必要ですが、この例のように多数派が間違うことがいくらでもあります。
物ごとを多数決で決めることを民主主義というならば、多数派に歯止めをかけることを立憲主義といいます。今の政治家で民主主義は大切だという人はたくさんいますが、立憲主義のことを言う人はほとんどいません。今、「民主」という言葉を使った政党がいくつもありますが、「立憲」という言葉を使った政党はほとんどありません。しかし、かつてはそうではありませんでした。今、「立憲主義」の思想、視点が欠けているのではないかと思います。
 今日、ドイツの友人から譲り受けたナチスドイツ時代の写真集を持ってきました。実はヒトラーは毎月のようにこうした写真集を発行していました。そして、演説している写真のほかに女性や子どもに優しくしている写真などを数多く載せました。毎号毎号、女性と子どもたちに優しく接するヒトラーの写真を掲載しているのです。この写真などを見るとヒトラーは本当に気のいいおじさんです。このように子どもと女性を独裁者ヒトラーは利用していたのです。
では、それにだまされた当時のドイツ国民が馬鹿だったのでしょうか。いやそうではありません。ムード、情報操作、目先の利益などにだまされる不完全性が人間にはあります。だれにでも誤る可能性、怖さ、弱さがある。自分にもそういう弱さがあると思います。だから冷静な頭の時に憲法というものを作っておくのです。昔は国王の暴走を防ぐために貴族が考えた道具が憲法でしたが、今は国民の多数に歯止めをかけるために機能します。人間には弱さ、不完全性があり、多数の国民もムードに流されてしまう。だから、あらかじめ歯止めをかけるために、冷静な頭の時に合理的な自己抑制の道具として憲法を制定するのです。全体としての国民(国家)に歯止めをかけて、1人1人の個人を守る。国家権力に歯止めをかけて国民を守る道具が憲法なのです。

▽法律は国民の歯止め、憲法は国家の歯止め
 多くの法律は国民に歯止めをかけます。しかし、憲法は逆に国民の側が国家に歯止めをかけるものです。私自身、20代前半まではこのような憲法と法律の違いは分かりませんでした。国民には憲法を守るべき義務がありません。憲法第99条はそのことに触れています。憲法を守る義務を国民に課さず、国家権力を行使する公務員に憲法遵守義務を課しました。憲法は国民の権利、自由を守るために存在します。ここでの国家は権力主体としての国家です。ガバメント、ステートとよばれるものです。
よく9条の会の人たちが「憲法を守ろう」と言いますが、国民の皆さんが憲法を守ってもしかたがありません。国会議員や公務員に9条を守らせましょう、ということでなければなりません。
国家権力に歯止めをかけ国民の権利、自由を守るという憲法の役割が、今では国民の多数派に歯止めをかけ、少数派を守る。強者に歯止めをかけ、弱者を守る役割に広がってきました。今の世の中、利害が対立することがたくさんあります。たとえば「大企業と従業員」「医者と患者」「教師と生徒」「横暴な親となすすべもない子ども」、などです。そのときに、理不尽を許さないということで憲法の考えが役に立ちます。談合がなぜ悪いのでしょうか。それは強いだけの支配はいけないからです。そのために独禁法があるのです。

▽憲法を理解するにはイマジネーションが必要
 ではなぜ私はあるときまで「憲法」に無関心でいられたのでしょうか。理由は簡単です。私が多数派だったからです。強者や多数派にとって憲法なんてどうでもよいのです。憲法とはそういうものです。幸福にも私は多数派だった。健康であり、地方公務員の家で生まれ、多数派の側にいました。食うや食わずということはなく、普通に生活できました。しかし、たとえば在日で差別を受け、会社でも昇進差別があり、身障者だったら憲法に関する関心が全然違っていたと思います。
 わたしはかって東京で全盲の人たちの前でお話ししたことがありますが、全盲の方の2人のうち1人は駅のホームで転落事故を起こしたことがあるそうです。幸いにして電車が来なかっただけです。だから黄色いブロックを埋め込んでくれと必死に要求し、何度も掛け合いました。でも最初は弱者のわがままとはねつけられました。目の見える多数者にはこの悔しさは分かるわけがありません。生活保護者、路上生活者の場合もそうです。極論すれば、憲法とは弱者にとって必要なもので、強者にとってはどうでもいいものなのです。
 だから憲法を理解するためにはイマジネーションを働かせないといけないのです。「有事立法」が通って大変だと私は思いました。航空労働者や医療労働者も同じ思いを持ちました。民間航空機が戦時物資を輸送するとなれば、軍用機と見なされます。このように、憲法を理解するにはイマジネーションを働かせることが大事になってきます。
また、例えば、私がいつ交通事故になって車イス生活になるか分からない。明日はどうなるか分かりません。介護が必要になるかもしれない、弱者になるかもしれない、というイマジネーションを働かせることが必要です。国家権力を行使する公務員も一労働者としてみれば弱者になります。新聞もマスコミという第4の権力となりますが、でも労働者1人ひとりは弱者です。このように人間には、ある面では強者であり、ある面では弱者であるという多面性があります。多数派にイマジネーションを喚起させないと、憲法の大切さを理解してもらえないのです。

▽「人はみな同じ」「人はみな違う」が両立
 憲法の中では第13条が一番大切です。「すべて国民は、個人として尊重される」と規定されています。国家のために個人があるのではない。個人のために国家があるということです。そして、ここには、「人はみな同じ」「人はみな違う」という一見相反する2つの意味が含まれています。
まず、「人はみな同じ」の方ですが、このことを徹底することは難しい。凶悪犯人の人権を尊重しろと言えるのかと主張されたりします。でも、たとえ凶悪犯人であっても最低限、裁判を受ける権利を保障しなければなりません。人権を守るには忍耐が必要なのです。
例えば、10人の被告人の中に、9人が死刑に値する凶悪犯で、1人だけ無実の人が紛れ込み、だれが無実の人かわからないとします。そのときあなたが裁判官だったら、全員死刑にするか、それとも全員無罪にするか、考えてみてください。
憲法の「個人の尊重」からいったら当然全員無罪で釈放することになります。これを無罪の推定という言葉で言い表します、1人の無実の人を救うためには、9人の凶悪犯人を釈放して社会に受け入れるリスクを負う覚悟が必要だと言うことです。そうでなければ人権を守れということはできません。
 もうひとつ、「人はみな違う」の方ですが、人としての価値や権利はみな同じだが、だれひとりとして同じ人間はいないということです。人にはそれぞれ個性があり、それぞれの幸福を追い求めればいいのです。人と違うことは素晴しいことであり、それぞれの生き方に価値があると憲法は認めているのです。
しかし、この社会で人と違うように生きるのは大変なことです。日本人には人と違う生き方をすることが苦手なところがあるのかもしれません。
 自民党の新憲法草案には、日本民族の同質性を高めるから居心地がいい、安心で心地よいという発想があります。しかし、この発想では、外の人間に対して排他的で壁が出来ることになります。今の憲法と全く逆の発想です。
はたして個人の尊重を後退させて同質性を高める方がいいのか。しっかり考えないといけません。確かに、一緒につるんでいる方が楽です。しかし、それでは外との交流がなくなります。今の憲法は多様性を認め、外とオープンにする考えに立っています。自民党の新憲法草案には、差別を解消する方向ではなく、新たな差別を生む可能性があるような気がします。

▽幸福の追求と自己決定、積極的非暴力平和主義
 自分の生き方は自分で決めていい、自分の幸せは自分自身で定義しろ、というのが憲法の考えです。憲法は幸福権を保障していません。幸福の中身はそれぞれ違うからです。しかし、憲法は13条の後段で幸福追求権を認めています。
個人の尊重から自己決定権も導かれます。医療の措置も自分で決める。財産を残して認知症が重くなったが、どう管理するかは本人の意志を尊重する。労働基本権も自己決定権を根底において理解しなければなりません。かつては食える賃金の確保ということで労働基本権の根底には生存権があると見なされていました。しかし、高給取りのプロ野球選手も労働者です。彼らがストをすることで違和感を持たれた方もいらっしゃるようですが、あのストも選手たちの自己決定権に基づくものと考えればよいのです。自分の働く環境は自分が参加して決める。職場の環境整備は自分の問題だから、交渉して決めるのは当たり前だろうということです。対等の立場で主体的に決める。このように、労働基本権が幸福追求権、自己決定権の尊重から根拠づけられるのです。
 日本ではかなりの方が誤解しているようですが、前文と9条の平和主義は決して一国平和主義を謳っているのではありません。私は前文と9条には「積極的非暴力平和主義」が規定されていると考えています。軍事力によらない国際的支援をしていく。人間安全保障とも呼ぶべきものが日本の憲法には規定されているのです。憲法前文2項には、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあります。これがわが憲法の平和主義の根幹です。

▽少数意見がないと多数派の正しさは論証できない
 表現の自由。これも憲法の中で重要な位置を占めます。憲法論的には、多数決は正しいとは言えません。少数意見よりは多数意見の方がましではないかというにすぎません。逆に言うと少数意見がないと多数派の正しさの論証はできないのです。多数の強行採決はなぜいけないか。それは多数決の正当性の根拠を明らかにする機会がなくなるからです。多数意見にとっても少数意見は絶対に不可欠なのです。
 日本は基本的に直接民主制をとらず間接民主制をとっています。直接民主制の弊害があるからです。国のレベルで、十分な討議、審議ができないのではないか、きちんと議論できないのではないか、多数の横暴が直接民主制だと通ってしまうのではないか、という恐れがあります。
少数意見も尊重し、審議することで妥当な妥協が出来ます。直接民主制はどうしても多数決主義になります。ですから、わが国では、原則として国民投票制度は採用していません。ムードに流されたり、提案者に対する人気投票になったりして正しくない国民投票=プレビシットになるおそれがあります。
 ですからわが国は間接民主制=代表民主制を採っているのです。国民の多数がこうなったから変えましょうという代表者がいたらどうなるのでしょうか。
 新聞に求められるのは多角的な意見の紹介です。国民の目を覚まさせること。社会の木鐸といいますね。警鐘を鳴らす。国民を覚醒させる。議論の素材を与える。少数意見、多角的な見方を提示する。私は公正・公平な報道はないと思っています。いろいろな考え方があって当たり前だし、国民がそれを学びとることが大切なのです。新聞が素材としてさまざまな事実を提供してくれると嬉しいです。埋もれている事実の発掘。例えば防衛大学校の中退者が3割になったという事実。数字を提示していただくとイメージを持ちやすいと思います。

▽自民党案の問題点
 自民党の改憲論議ですが、まず(新憲法草案一次案の)第9条2項の2。なぜ自衛軍にしなければならないのか。改憲によって誰が得をするのか。国民を自由にするためなのか。それともより不自由になっていくのがいいと国民自身が認めるのかを考えなければなりません。自衛軍は「我が国の基本的な公共の秩序の維持のための活動を行う」とありますが、これは国民にむけて軍が動くということです。
第9条の3の2項。「前条第2項に定める自衛軍の活動については、事前に、時宜によっては事後に、法律を定めるところにより、国会の承認を受けなければならない。」とありますが、「時宜によっては事後に」ということは、全てが事後になるだろうと思います。シビリアンコントロールはまず不可能です(10月28日に発表された新憲法草案では国会の承認は任意となりました)。
第13条。「すべて国民は、個人として尊重される」とあって、現行憲法は「公共の福祉に反しない限り」でしたが、自民案は「公益及び公の執序に反しない限り」とあります。「公共の福祉」は人権対人権のぶつかり合いを調整するための原理ですが、「公益及び公の執序に反しない限り」という言い方は国家対人権ということになりはしないでしょうか。
第20条3項。「国及び公共団体は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教教育その他の宗教活動をしてはならない」とありますが、社会的儀礼の範囲内イコール靖国神社参拝は認められると言うことになりはしないでしょうか。
第54条の1項。「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」。今は内閣の閣議(一致)で決めますから、これだと全く議論なしに総理大臣が決めることができます。
第72条。総理大臣の職務ですが、「内閣総理大臣は行政各部を指揮監督し、その総合調整を行う」も同じように首相の権限を強めることになるでしょう。
第91条の4。「国および地方自治体は、地方自治の本旨に基づき、適切な役割分担を踏まえて、相互に協力しなければならない」。この「適切な役割分担」がくせ者です。中央と地方を区別し、外交、平和に自治体が口を出すなと言われかねません。
第96条の削除。これでは地方の住民は国のいいなりです。
第96条の憲法改正の手続きですが、各議員の総議員の「3分の2以上」から過半数」の賛成となっていて、ハードルが低くなります。

 いずれにしても憲法の本質を知っていただくことと、少数の意見を反映させることが大切です。憲法は守るものではなく、実践するものです。憲法を実践し、話題にすることが大切だと思います。